John Coltrane / ジョン・コルトレーン - 100Sax.com

John Coltrane / ジョン・コルトレーン
Biography

ジョン・コルトレーン(John Coltrane, 1926年9月23日 – 1967年7月17日)は、アメリカ、ノースカロライナ州生まれのモダンジャズのサックスプレーヤー。愛称はトレーン(Trane)。

長い間無名のままでいたため、第一線で活躍した期間は10年余りであったが、自己の音楽に満足せずに絶えず前進を続け、マイルス・デイヴィスと並ぶ20世紀のジャズ最大のカリスマとなった。

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主にテナー・サックスを演奏したが、活動初期はアルト・サックス、1960年代よりソプラノ・サックス、最晩年にはフルートの演奏も残している。活動時期は、1950年代のハード・バップの黄金時代から1960年代のモード・ジャズの時代、さらにフリー・ジャズの時代にわたり、それぞれの時代に大きな足跡「ジャイアントステップ」を残した。

John Coltrane / ジョン・コルトレーンの経歴

1940年代にチャーリー・パーカーらが確立した4ビート・バップ・ジャズのアドリブ方法論を、現代的に再構築した功績は大きい。アルバムに換算して200枚を超える多数の録音を残した。2012年現在でも多くのジャズ愛好家たちに愛され続けている。

1949年にディジー・ガレスピーのバンドに参加し、その後テナー・サックスに転向。ほとんど無名のままいくつかのバンドを転々とした。

1955年に、マイルス・デイヴィスのグループに入る。マイルスバンドに抜擢されたコルトレーンもその名前が知られるようになり、マイルスバンド以外のレコーディングの機会も多くなる。

1957年に、一旦マイルスバンドを退団。その後はセロニアス・モンクのバンドに加入し、モンクから楽理の知識を授かると共に音楽的修業に集中。また、同時期に麻薬中毒も克服。同年5月には、初リーダー・アルバム『コルトレーン』の吹き込みを行っている。

1957年9月にはブルーノート・レコードにて初期の代表作の名盤『ブルー・トレイン』を吹き込んでいる。ジャズの巨人コルトレーンの誕生となる。

1958年、マイルスバンドに再加入。マイルスにより、コルトレーンをソニー・ロリンズと並ぶ2大テナー奏者として高く評価された。音楽評論家のアイラ・ギトラーにより、音を敷き詰めたようなコルトレーンの演奏スタイルを「シーツ・オブ・サウンド」と形容され、これが、初期コルトレーンの奏法の代名詞となる。

1959年、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』収録に参加。またアトランティック・レコードに移籍し、中期の代表作『ジャイアント・ステップス』を録音。の頃から、単なるハード・バップ・テナー奏者から脱却すべく独自の音楽性を模索する試みが始まる。

  

1960年春、マイルスバンドを脱退。その後マッコイ・タイナー、エルビン・ジョーンズを中心にジョン・コルトレーン自身のレギュラー・バンドを結成しツアーに出ている。10月には、レコーディング。このときのセッションからは『マイ・フェイヴァリット・シングス』、『プレイズ・ザ・ブルース』、『コルトレーンズ・サウンド(邦題:「夜は千の目を持つ」)』などのアルバムが発表されている。タイトル曲「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、コルトレーンの最初のヒット曲となった。

1961年、アトランティックを離れ、インパルス!レコードに移籍。3月にはマイルスのアルバム『サム・デイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(邦題:「いつか王子様が」)』の録音にゲストとして参加。

1962年、エリック・ドルフィー退団。
以後コルトレーンは、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン(ベース)、エルヴィン・ジョーンズというほぼ不動のメンバーによるカルテットと共に活動、バンド全体が一体となって演奏を繰り広げるという表現方法を確立。コンサートでは、1曲の演奏時間が30分から1時間に及ぶこともざらであった。

1964年末、『至上の愛』を録音。また1965年に入ると、コルトレーンのモード・ジャズは極限にまで達し、特定の調性にとらわれず、あらゆるスケールを縦横無尽に使うことによって「無調性音楽」の色彩が強くなっていく。

1965年6月、コルトレーンはついにアルバム『アセンション』を発表し、フリー・ジャズに転向する。動のサンダースに対して静のコルトレーンという対比をうまく作り出すことに成功。コルトレーンのフリー・ジャズは激烈さの中に静謐さが同居するもので、瞑想的と表現されることが多い。

1967年5月7日、ボルチモアで最後のコンサートを行う。1967年7月17日、肝臓癌で亡くなる。